浄土真宗

古いお仏壇は" 粗大ゴミ "か

住居を新築したおり、お仏壇も大型のものを安置する
設計にし、新しいお仏壇をお迎えしたとき古いお仏壇は
" 下取り "というとなじめないものです

お仏壇を" 物 "として見れば工芸品です
しかし、家具や調度、装飾品として決して同列視していない
きっぱりとした姿勢がうかがえます

とすると、物ならば再使用に耐えられるものは
下取りしてもらえますが、そうでないと粗大ゴミになります
やはり代々にわたってお給仕してきた" こころ "を
大切にしたいものです

ですから、新しくお仏壇を求めるとき、これまで
お給仕していたのをどうするかを、お寺に
相談するとよいでしょう
「 求めたいけど余裕がないので 」という
人があるかもしれませんから

蓮如上人は門弟の法敬坊順誓( ほうきょうぼうじゅんせい )に
" 法敬と我とは兄弟よ "と「 御一代記聞所 」に言われています
血のつながりはなくても、如来の大悲に照らされた
者同士は、肉親も同様だというのが、念仏者の
世界の美しさなのです

お念仏をよろこぶ人から人へ
お仏壇のお給仕、続けられていく姿は
やっぱり心温まる情景です

お仏壇は仏さまのお館です
新しくお仏壇を求めるときは、まず、ご住職に
相談するといいでしょう

❄ 仏法の兄弟 ❄
法敬坊順誓は、金沢に照円寺を開いた蓮如上人の門弟です
上人はこの順誓に" 信をえつれば、さきに生るる者は兄
後に生るる者は弟よ "といわれています
この場合の" 生るる "はこの世だけでなく、あの世
つまり浄土へ生まれるという意味です
仏法の" 兄弟 "とは、そういうことです

ご先祖になぜお膳を出さない

絵に描いたような現代家族のお話

長男夫婦はスープの冷めない距離のところで
マンション住まいをしている
だから、お姑さんとお嫁さんは常に行き来をして
お友達みたいに付き合っているといいます

お姑さんがそのお嫁さんについて最も気に入っているのは
うわべは上手ごかしを言えないが、素直で心優しい人柄だそうです
その心優しさが、仏事をめぐって家庭にちょっとした
波紋を巻き起こしたから困りましたとさ

台所まわりを担当していたお嫁さんがふともらした
素朴な疑問が発端になったのです
「 生きている身内の者ばかり飲み食いして、肝心の
おじいちゃん( 故人 )には何も差し上げないのですか? 」
お嫁さんの実家は真宗ではないので、仏事のときには
小さなお膳に精進料理を特別に調理してお供えしていたといいます

お姑さんは早速、それをご主人に告げると
「 うちではそんなことをしない 」という返事に
「 何故しないのか 」とお嫁さんが口をはさんだのが
悪かったようです
「 実家のやり方で指図するのか 」とご主人は
つむじをまげて気まずいことになりました

このような話をすると" 真宗の門徒は亡き人に対して冷たい "
というように受け取れないでもありません
しかし、それは思いすごしです

お浄土に生まれさせていただいたものは、いつも
百味の飲食( おんじき )にとりかこまれていると
お経( 大無量寿経 )にあります
そのうえ、誰も食べる者がなくて、その美しさを見
香りをかいだだけで満足するとあります

娑婆では食欲がないと心配ですが、お浄土では
それがこの上もなく清浄極まりない世界なのです
だから、今さら特別に調理して差し上げる必要もなく
真宗では" 霊供膳 "というしきたりもありません

ともあれ、この若いお嫁さんの場合、その心の優しさと
素朴な疑問から、お念仏を喜ぶ身になっていただければなにより

仏前にお水は供える?

浄土真宗では、特に" 水 "を供えるという作法は
ありません

お供えとは、こちらから仏さまに物品をさしむける
( 回向 )行為ではないということです

お経に説かれている仏さまの世界( お浄土 )の
特徴のひとつに" 八功徳水( はちくどくすい ) "を
あげることができます
この上もなく清浄で、美しい八つの徳をもつ水に
恵まれた国土なのです

だから、今さらこちらからチリやカルキの入った
水を送ることはありません

宗旨の違う家庭では、亡き人もノドがかわくだろうというので
記録のある先祖の数だけ水やお茶が入った湯呑を
並べていますが、なんだか鳥カゴみたいな感じがして
お仏壇としては、不似合いな眺めがします

だいいち、お仏壇は死者の" 容れ物 "ではないはずです

なお、上卓の仏具は、大谷派では本願寺派のように
ローソク立てを置きません
上卓というのは、どちらにしても大型の仏壇のみで
小型のものは上卓に華瓶や香炉、ローソク立てなどの
具足を置けるスペースはありません

浄土真宗では、お仏壇にお水を供えないのが
昔からのしきたりです

位牌と仏教の関係

" 位牌を汚す "という言葉
" 祖先の名誉を傷つける "ことだと解説されています

いま、こういう古風な表現が一般に用いらているかどうか
それはわかりませんが" 位牌 "というものの成り立ちを
物語るようでおもしろい

" 位牌 "
字義どおり" 位 "の" 牌 "で個人の生存中の官位と姓名を
書き付けた木札であったといわれます
儒教に発した位牌の風儀が、先祖の生前の世俗的な名誉や
誇りと表裏して君臨している限り、拝礼している子孫としては
" 世俗的名誉 "というものに対して、常に緊張感を持ち続けなければならず
それを踏み外すと" 位牌を汚す "と非難されたのでしょう

古来、位牌は死者の霊がとどまる場所と考えられてきました
また、その霊魂は世俗の権威とか社会的地位を抱えたままという
つまり肩書つきの故人なのです
いうまでもなく仏陀のさとりを仰ぐ仏教において、世俗の肩書きなど
一切無用です
真宗だけでなく仏教そのものに位牌がなじまないという
素朴な理由がこれでお分かりいただけるかと・・・

無論、だからといって祖先や亡き肉親への思いを軽視しても
いいというのではありません
命日や年回法要などの仏事には" 法名 "を通じて故人を
偲びつつ、報謝に念を深めるのは、何よりのご縁です

したがって、浄土真宗では位牌はもちいません
しかし、上記の趣旨から故人の法名や死亡年月日を記した
" 過去帳 "あるいは法名を表装した" 法名軸 "などを仏壇に
配置することは、やぶさかではありません

但しこの場合、ご本尊が隠れないように、法名軸はお仏壇の
側面に掛けるようにし、主に年回にあたる日や祥月命日
( 亡くなられたその月のその日 )に掛け、普段はお仏壇の
引き出しにしまっておきます

また、法名に対しては香華やお仏飯などをご本尊とは
別にお供えしないことが多いようです

浄土真宗では、ご先祖や亡き人を偲ぶ場合
過去帳や法名軸をお仏壇に安置します

なぜ位牌を安置する

浄土真宗では位牌をもちいません

なぜか?

結論から言いますと、本来は仏教のしきたりではないからです
真宗関係の古書を縦横に引用して詳しく論証されていますが
" 経文のどこにも、位牌に関して説かれていない "とのこと

すると真宗だけでなく、いずれの宗派でも厳密に考えれば
位牌を安置するのは正しい習慣とはいえないはずで
とりわけお仏壇でご本尊のかわりをつとめたり、あるいは
ご本尊を圧倒するかのように位牌が所狭しと並んでいるのは
仏教としてなじまないということになります

亡き人やご先祖をしのんで、仏前で手を合わせる行為は
尊いですが、やはり" 位牌 "というものの存在を
きちんとおさえておきましょう

では、" 位牌 "とは何か?
古代中国の儒教の風習で、それが仏教と混同されて
伝えられたものらしく、我が国日本で一般化したのは
鎌倉時代以降、特に江戸時代ではないかと推定されています

" 儒教 "とは、いうまでもなく孔子を祖とし" 仁 "を中心として
人道の実践を強調する教えです
そのなかに" 孝経( こうきょう ) "があり、また論語にも
" 孝 "が説かれているところから、亡き親や先祖に
丁重に孝養を尽くすためにこの作法が定着したようです

つまり、死者の霊がこの1枚の板にとどまっていると考え
それに対してうやうやしく拝礼していくための対象です

古書には「 仏説にはなき事なり 」と論断されているようです

真宗では位牌は用いないとはいっても現実に、お葬式などの
ときには白木の位牌に法名が記され、荘厳壇( 祭壇 )の前に
安置されることが多いようです

ですが、これは世間一般のならわしに合わせているだけで
( 葬儀に位牌を用いないところもあります )
お葬式、あるいは四十九日( 中陰 )がすめば、この白木の
位牌は、お寺さんに持ち帰っていただいて処分してもらいます

位牌は真宗では原則としてもちいません
位牌は儒教のならわしで、もともとは仏教のしきたりではないからです


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