浄土真宗

法事に参って最初にすること

年回法要などの仏事は日ごろ疎遠になりがちな親類縁者が
顔を合わせる得難い機会です
昔は、遠来の客というのは珍しいものでしたが、最近は
東から西から参集するというのが普通になってきました

ついでに言えば、一昔前まで遠方という理由で仏事に
参詣するのは一家の代表者ひとりというのがほとんど
でしたが、最近では家族揃ってお参りすることも
結構増えました

まさに亡き人を中心にした仏縁の確かさと言えましょう

ところが、遠来の客を迎える側も、迎えられる側も久しぶりの
対面のために、懐かしさが先だって、肝心のテーマが
おろそかになりかねません
仏事に参集したという目的意識が後回しになって、話に
夢中になり、それに時間を費やしてしまって、法要が始まる
間際まで台所や茶の間で親族集会が花盛りという光景です

心したいのはこれでは順序が逆・・・ということです

極論すれば、法要のために足を運んできたはずが、親族の
寄り合いのついでに法要をつとめた という形になって
しまいかねません

理屈ではなく、実際の問題として懐かしい顔ぶれと" やあやあ "と
いって茶の間に座り込んでしまったとき、法要にお参りにする
ために来たという気分は吹っ飛んでしまっているはずです

だから、なにはおいても真っ先にお仏壇の前で
ごあいさつしてください
まず静かに合掌礼拝し" やあやあ "は、あくまでも二の次です
このことは、お寺の法座にお参りしたときも同様

法座に会わせていただくのは、あくまでもの聴聞が主題ですから
まず正面のご本尊にごあいさつします
先にお参りしている知り合いから声をかけられたら、軽く目礼し
合掌礼拝後にあらためてお互いのあいさつをするように
心がけます

なお、申し添えるまでもありませんが、仏事に参詣しお仏壇の
前で合掌礼拝したとき、カネ( 馨 )を鳴らす人がおりますが
浄土真宗の作法としては間違いです

こういうことのないように、主宰する側は読経の時以外は
手の届くところへ" カネ "の配置をしないように注意するのも
心がけの一つでしょう

年回法要で親類縁者に家に参詣したとき、お寺の法座へ
行ったとき、まず最初に仏さまに手を合わせ礼拝します

年回法要は、いつ、つとめる

この頃、年回法要など親類縁者を招いてお勤めする仏事は
祥月命日に近い休日に営まれることが多くなったようです
できるだけ、もれなくお参りしてもらうために という配慮が
働いているのでしょう

ところが、おつとめを依頼されるご院さんの方では、日曜日や
祝日に限られるため、何軒か重なってしまうという例も
珍しくはありません

とりわけ、年回法要には" 三部経 "を拝読し、短い法話があり
お斎になるといった伝統のある土地では、せいぜい午前と
午後の2軒が限度でしょう

しかし、" どうしてもその日に "という強い希望があれば
申し込み順で打ち切ってしまうというのも、ご院さんと
しては偲びないものです

ご門徒さんの家でお母さんの五十回忌を三度つとめた
お寺の場合は・・・

数年前、仏事が重なると当日は" 大無量寿経 "だけを拝読し
祥月命日に改めてその家で" 観無量寿経 "と" 阿弥陀経 "を
あげることにしたと言います

するとご門徒から、" これほど丁寧に仏事を営むことは有り難い "と
今では、たまたま祥月命日が休日でない限り" 二度づとめ "が
すっかり定着したと言います

そのお寺の住職さんは、こう言います
" 何よりお参りの人数が多いと、家の者は接待や雑用に
追われて、仏事にゆっくり会えないでしょう それが、2度目には
内輪だけなので、しみじみとお参りできると喜ばれています
ただ門徒の多いお寺では、忙しくて' 二度づとめ 'は
できるかどうか・・・ "と

ご門徒の人に聞くと" ひっつけて( 併修=2人以上の法要を
併せてつとめる )つとめた時も、命日にもう一度、参って
くださいとお願いしてます "ということでした

なお、休日を選んだ場合、祥月命日より早く務めるのは
仏事を伸ばし伸ばしにしないようにという、心構えの
表れだと言われています

年回法要は、祥月命日( 亡くなられたその月のその日 )の
当日かそれより早目につとめるのが一般的です

仏事を" なおざり "にしないようにとの
昔の人の" いましめ "からです


古いお仏壇は" 粗大ゴミ "か

住居を新築したおり、お仏壇も大型のものを安置する
設計にし、新しいお仏壇をお迎えしたとき古いお仏壇は
" 下取り "というとなじめないものです

お仏壇を" 物 "として見れば工芸品です
しかし、家具や調度、装飾品として決して同列視していない
きっぱりとした姿勢がうかがえます

とすると、物ならば再使用に耐えられるものは
下取りしてもらえますが、そうでないと粗大ゴミになります
やはり代々にわたってお給仕してきた" こころ "を
大切にしたいものです

ですから、新しくお仏壇を求めるとき、これまで
お給仕していたのをどうするかを、お寺に
相談するとよいでしょう
「 求めたいけど余裕がないので 」という
人があるかもしれませんから

蓮如上人は門弟の法敬坊順誓( ほうきょうぼうじゅんせい )に
" 法敬と我とは兄弟よ "と「 御一代記聞所 」に言われています
血のつながりはなくても、如来の大悲に照らされた
者同士は、肉親も同様だというのが、念仏者の
世界の美しさなのです

お念仏をよろこぶ人から人へ
お仏壇のお給仕、続けられていく姿は
やっぱり心温まる情景です

お仏壇は仏さまのお館です
新しくお仏壇を求めるときは、まず、ご住職に
相談するといいでしょう

❄ 仏法の兄弟 ❄
法敬坊順誓は、金沢に照円寺を開いた蓮如上人の門弟です
上人はこの順誓に" 信をえつれば、さきに生るる者は兄
後に生るる者は弟よ "といわれています
この場合の" 生るる "はこの世だけでなく、あの世
つまり浄土へ生まれるという意味です
仏法の" 兄弟 "とは、そういうことです

ご先祖になぜお膳を出さない

絵に描いたような現代家族のお話

長男夫婦はスープの冷めない距離のところで
マンション住まいをしている
だから、お姑さんとお嫁さんは常に行き来をして
お友達みたいに付き合っているといいます

お姑さんがそのお嫁さんについて最も気に入っているのは
うわべは上手ごかしを言えないが、素直で心優しい人柄だそうです
その心優しさが、仏事をめぐって家庭にちょっとした
波紋を巻き起こしたから困りましたとさ

台所まわりを担当していたお嫁さんがふともらした
素朴な疑問が発端になったのです
「 生きている身内の者ばかり飲み食いして、肝心の
おじいちゃん( 故人 )には何も差し上げないのですか? 」
お嫁さんの実家は真宗ではないので、仏事のときには
小さなお膳に精進料理を特別に調理してお供えしていたといいます

お姑さんは早速、それをご主人に告げると
「 うちではそんなことをしない 」という返事に
「 何故しないのか 」とお嫁さんが口をはさんだのが
悪かったようです
「 実家のやり方で指図するのか 」とご主人は
つむじをまげて気まずいことになりました

このような話をすると" 真宗の門徒は亡き人に対して冷たい "
というように受け取れないでもありません
しかし、それは思いすごしです

お浄土に生まれさせていただいたものは、いつも
百味の飲食( おんじき )にとりかこまれていると
お経( 大無量寿経 )にあります
そのうえ、誰も食べる者がなくて、その美しさを見
香りをかいだだけで満足するとあります

娑婆では食欲がないと心配ですが、お浄土では
それがこの上もなく清浄極まりない世界なのです
だから、今さら特別に調理して差し上げる必要もなく
真宗では" 霊供膳 "というしきたりもありません

ともあれ、この若いお嫁さんの場合、その心の優しさと
素朴な疑問から、お念仏を喜ぶ身になっていただければなにより

仏前にお水は供える?

浄土真宗では、特に" 水 "を供えるという作法は
ありません

お供えとは、こちらから仏さまに物品をさしむける
( 回向 )行為ではないということです

お経に説かれている仏さまの世界( お浄土 )の
特徴のひとつに" 八功徳水( はちくどくすい ) "を
あげることができます
この上もなく清浄で、美しい八つの徳をもつ水に
恵まれた国土なのです

だから、今さらこちらからチリやカルキの入った
水を送ることはありません

宗旨の違う家庭では、亡き人もノドがかわくだろうというので
記録のある先祖の数だけ水やお茶が入った湯呑を
並べていますが、なんだか鳥カゴみたいな感じがして
お仏壇としては、不似合いな眺めがします

だいいち、お仏壇は死者の" 容れ物 "ではないはずです

なお、上卓の仏具は、大谷派では本願寺派のように
ローソク立てを置きません
上卓というのは、どちらにしても大型の仏壇のみで
小型のものは上卓に華瓶や香炉、ローソク立てなどの
具足を置けるスペースはありません

浄土真宗では、お仏壇にお水を供えないのが
昔からのしきたりです
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